こわい話 ヒカルバージョン 前編
「都市伝説」って聞いたことあるか?
そう本田さんに聞かれたけど、おれ、よく分からなかった。
そんなのがなんで和谷に関係あんの? って。
でも、本田さんの顔はあまりにも真剣で。
おれはなんだか胸の中の不安が大きくなるのを感じた。
和谷とはあれからずっと、連絡が取れていないんだ…
真夜中の電話 Ⅲ
和谷の家に行ってから1週間ほどが過ぎた。
伊角さんの話では和谷はあの後すぐ、自分の家へと戻ったらしい。
伊角さんの…というのは、いくら和谷に電話しても電源が切られてて捕まらないからだ。
「おれは、もうあの部屋に帰るのはやめたほうがいいんじゃないかって言ったんだけどな」
そう言って、伊角さんは溜息を吐いた。
最近、なぜか溜息吐くこと多いよね、伊角さんてさ。
でも、おれも伊角さんと同意見かな? 和谷、あの部屋出たほうがいいと思うもん。
今日は和谷も手合いで棋院に来るはずだから、そのこと話そうと思ってんだけど、伊角さんに言われたんだよな~。
「和谷に会ったら、覚悟しといたほうがいいぞ?」って。
何でも、和谷をびびらせたあの電話がおれたちのいたずらだったと分かった途端、和谷の顔が怒りで真っ赤になったとか、ならなかったとか…
いや、絶対になってるよな。うん。間違いない。
う~ん。どうしたものかな?
でも、クローゼットに入れたのはおれたちじゃないし、ま、和谷もかわいい弟弟子相手にそんなに怒ったりしねぇよな。きっとそうだ。そうに違いない。そうであってくれ。
……………。
って、違う違う!
おれはこれでも一応、和谷のこと心配してんだって!
だって、あの部屋は…
そこまで考えて、ふと、おれは足を止めていた。
駅から棋院への道のりの途中だ。
すぐ後ろを歩いていたサラリーマン風の男が、道の真ん中で急に立ち止まったおれに、迷惑そうな視線を投げかけながら通り過ぎて行く。
随分と風が冷たくなり、陽の光もまた日ごとに穏やかさを増していることに、今ようやく気がついたような気がしていた。
横を見ると歩道の傍らに立つ街路樹が目に入った。
ついこの間まで青々としていた街路樹の葉も、いつの間にかその色を変え、時折吹く風にかさりと乾いた音を立てながら緩やかに舞い始めている。
もう、秋なんだ…
何処からともなく、甘やかな花の香りが漂っていた。
ああ、この香りだ、おれを呼び止めたのは。
そう、これは金木犀の香り。
何処かに植えられているのだろう。
姿は見えなくともあの小さく可憐な花は、その甘い香りで激しいまでの自己主張をしているようだ。
ふと、頭の中に懐かしい声が蘇る。
『ヒカル、見てください。まるで小さな星屑のようではありませんか』
公園に植えられている金木犀の花を見つけて、あいつは柔らかく微笑んでいた。
『この花はね、ヒカル。南蛮から渡来した、とても珍しい花だったのですよ。…今ではこんなにも身近に触れられるようになったのですねぇ』
嬉しそうに、そしてどこか寂しそうに遠い目をした。
黄金色に染まる夕日を浴びて、確かにそこに佇んでいるのに決して触れることのできない人は、金色の花影に今にも融けてしまいそうな気がして、なんだか胸が切なかったのを思い出す。
あいつが居なくなって、もう、何年かが経つ。
辛くないと言えば嘘になるだろう。でも、それを受け入れることはできるようになったと思う。
ただ、あいつが居なくなってから、今現在において、非常に困っていることが一つあった。
…視えるようになってしまったのだ。
ちなみに、別に視力が良くなった訳ではない。
そう、おれは霊と呼ばれる方々が視えるようになってしまったのだ!
ぎゃああああ!
こんな置き土産なんかいらねーってーの!!
責任取れー!!!
この、囲碁バカ幽霊!!!
…って言っても、仕方ないのは分かってるんだけどさ。
ったく、もう。
2年ほどだろうか、一緒にいた時間は。でもその間ずっと、この世の者ではない人と一緒だったのだから、体質的にあちらと繋がりやすくなってしまったのかも知れない。
………よく考えると、非常に迷惑極まりない話だ。
勝手に引っ付いてきて、勝手にどっかへ行って…
でも、感謝しているんだ。囲碁という世界に導いてくれたことを。何よりもあいつに出会えた事を。
顔を上げると、夏よりも深みを増した青い空が見えた。
それは何処までも高く、あいつの居るところまで続いてるような気がして、少し、鼻の奥がツンとする。
おれ、元気にやってるからな。
なんて、少し感傷的になったりしてな。
って、こんな事考えてる場合じゃ無かったんだっけ…
そうそう、和谷のこと考えてたんじゃん。
そうそう、あの部屋のこと…
…ヤバ! 思い出すだけで泣きそうだって!
ってか、すでになみだ目じゃん! おれ!
これはあいつのことを思い出してじゃないぞ! 絶対に!
ここから、そんなに遠くない場所にある和谷の部屋。
そう考えるだけで、おれは背中が寒くなるのを感じていた。
数日前、おれは伊角さんと本田さんと一緒に和谷の部屋に行った。
おれたちのイタズラにびびった和谷が、伊角さんの所に転がり込んでしまったからだ。
ぶっちゃけ、イタズラの後片付けをしに行かされたんだよな。
まあ、おれたちが悪いんだから仕方ないんだけどさ。
そしておれたちは開けてしまった。
和谷の部屋の、あのクローゼットを…
『たぶん、いくら閉めても開くんだよ。建付けが悪くて。だから、開かないようにしちゃったんじゃないか?』
こっちを向いてそう言う伊角さん越しに、クローゼットを見たときだった。
中に、何か黒いものが垂れ下がっているのが見えた気がした。
一体なんだろうと思って、おれは軽く首を傾げて中を覗いてみたんだ。
何も考えて無かった。
本当に何気なく覗いただけだったんだ…
そして、おれは見た。
…視えてしまった。
そこには女が…、クローゼットの天井に吸い付くようにへばりついている女が、いた。
垂れ下がっていたのは、女の長い黒髪だったんだ。
以外と高いクローゼットの天井に背中を引っ付けて、バサバサの髪を垂らした女が、力なくだらりと首を下げているのが、はっきりとリアルにおれには視えた。
でも、天井にへばり付いているんだ。
生きた人間の訳が無かった…
こういうの視たのは、これが初めてってわけじゃない。
でもこの時ばかりは、一瞬にして体中から血の気が引いた。
寒気がした、なんてもんじゃなかった。
すげえ、怖かった。
同じ幽霊でも、あいつとは全然違うんだ。
何て言うか…こう、…禍々しい…? っての?
人の形は一応しているけど、もう、人の心を持ってない…みたいな感じだった。
あの時、おれが見ているのに気がついたのか、それまで人形のように動かなかった女の頭が、ゆっくり、本当にゆっくりとこっちに向かって上がり始めたんだ。
おれは咄嗟に、近くに置いてあったビニール紐で戸を閉めて開かないようにした。
取っ手を何重にもぐるぐる巻きにして、しっかりと縛った。
顔を見たくなかった。なにより眼を合わせたくなかった。
本田さんが何か言ってたみたいだったけど、おれは何一つ聞いてなんかなかった。
純粋に怖かった。
早く逃げ出したかった。
ただ、それだけだった。
和谷の部屋だとか、そんなことその時は考える余裕も無かったんだ…
あれは開けてはいけなかったのかも知れない。
でも、おれたちのせいで開けることになってしまった。
和谷、この間の森下先生の研究会も休んでたし、気にはなっていたけど、おれはおれで先週から地方の仕事が入ってたりで、忙しくて会いに行けなかった。
携帯も、繋がらねーし。
だからおれは、あれから一度も和谷と連絡が取れていない…
「心配」とか「不安」とかって言う感情が、今のおれの中には山ほどある。
「つまんねーイタズラなんか、するんじゃなかった…な」
伊角さんじゃないけど、溜息の一つも吐きたい気分だ。
ああ、おれはまた「後悔」してるんだな…
そんなことばかり考えていて、おれはまったくの無防備状態にあったらしい。
「よっ!」
「うわああああ!」
いきなり背中を叩かれて、飛び上がった。…そして大声で叫んでいた。
恥ずい…限りなく恥ずい…
でも! 考えていたことが考えていたことだから、仕方ないじゃん!
とにかく、すっげえびっくりして振り返ったら、相手もびっくりした顔でこっちを見てた。
「人をびっくりさせといて何驚いてんだよ!もう!」
「いや…そんなに驚くとは思ってなかったから…逆にびっくりした」
言いながら、まだたらこの唇はぽかんと開いている。
…本田さんだし。
「今日、木曜日だけど、本田さんも手合い?」
「おお!? おれだって頑張ってるんだぞ! おまえたちだけじゃないんだからな!」
今日は高段者の手合い日だ。本田さんは鼻息も荒く拳を握り締めた。
知ってるよ。さっきのお返しにわざと意地悪言ってやっただけ。本田さん、今日が初めての木曜日なんだよね。
みんな頑張ってんだもんな。おれももっと頑張らねえとだめだよな!
真面目にそんなことを考えていると、本田さんがまたたらこの唇を動かす。
「ところで進藤、こんなところで立ち止まってたら通行の邪魔だぞ?」
言われて気がついた。おれ、歩道のど真ん中でずっと立ちんぼしてました!!
うわあ、周りの視線が冷たい気がするぅ。
いそいそと道の端っこに寄って歩きました…ハイ、スイマセンデシタ。
「今日、和谷も手合いだったよな?」
歩き出して少ししてから、本田さんが言った。
「うん…」
言いたいことは分かった。たぶん、おれと同じ。
「来るよな?」
「当たり前だろ!」
むきになって言い返すのは、きっと自分に言い聞かせるため。
本当はおれが一番、不安に思っているのかも知れない。
少しの沈黙の後、本田さんがまた口を開いた。
「おれ…さ、あのとき、すごく怖くてさ…和谷のことまで考えてなかったんだ…」
思わず、本田さんを見た。
「…本田さん?」
まさか、本田さんも、視えるんじゃ…?
本田さんは前を向いたまま、こっちに顔を向けようとはしなかった。でも、その頬が少し引きつっているのが見て取れた。そしてまたゆっくりとその唇が動き出す。
おれは黙ったまま、次の言葉が紡がれるのを待った。
「進藤は、都市伝説とかって、聞いたことあるか?」
出てきた言葉は、想像していたのとは違った。
「トシデンセツ?」
「その様子じゃ、知らないみたいだな」
本田さんの口元に苦笑のようなものが浮かぶ。
「都市伝説って言うのは、現代の怪談話っていうか、まあ、そんな感じのものなんだけど、おれ、わりとこの手の話が好きでさ、色々読んだり聞いたりして結構知ってるんだ」
それが和谷とどう関係があるのかと首を捻っていると、急に本田さんがこっちを見た。
真剣な顔をして、眼には不安げな色を浮かべて…
「…おれさ、よく似た話、聞いたことあるんだ」
不意に、いやな感覚がおれの背中を這い登った。
「何…の…?」
発した声は掠れている。唾を飲み込んだら、ごくりとやけに大きな音が聞こえた。
「…クローゼット…」
言いにくそうに、本田さんは言った。
何故だろう、賑やかだったはずの朝の往来が、一瞬でおれの中から消え失せてしまった。
代わりに、何らかのシグナルが、自分の中で明滅を始めるのを感じる。
「おれ、ずっと気になってて、でも、確かめることもできなくてな…」
本田さんは、視線を地面に落とすとポツリと呟いた。
「…なに? それ? 何を知ってんの?」
聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ち半分半分で、おれは尋ねた。
本田さんはおれの顔と地面とを、まるで見比べようとでもするかのように、視線を行ったり来たりさせていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「都内の何処かのマンションにな、『開かずのクローゼット』って言うのがあるらしい」
あくまで都市伝説だからな、と付け加えて、本田さんは話し始めた。真剣な顔で。
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やっと上がったと思ったら、ええ? まだ終わりじゃないの?
おかしいな、これ、ホントは伊角さんバージョンで終わる予定の短編だったはずなのに…
どんだけ引っ張ったら気が済むんだワタシ。
いや、ただ単にまとめる能力が無いってことで…
もうちょっと、続きます。
11月 5日 UP
14/12/17再UP
-竹流-
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