たとえば、こんな、物語(学園モノ)Ⅵ
「せんせい…」
高遠の目の前で、はじめは横たわったまま、力の無い声を上げた。
熱のために紅み掛かった頬が、自分を映す彼の潤んだ瞳が、まるで誘っているかのような錯覚を覚えさせる。けれど、そんな事は決してあり得ないと、高遠は自分に言い聞かせながら平静を装った。
「具合はどうですか?」
手近にあった椅子を引き寄せながら、あまつさえ笑みすら浮かべながら、高遠ははじめに声を掛けていた。見事なまでに教師の仮面を被っている自分に、苦笑が漏れそうだ。
椅子に掛けてはじめとの距離が近くなると、その額に張り付いている冷却シートの周りに絡む前髪が妙に気になって、気がつくと、はじめの髪を指で掻き揚げていた。
本当は、彼に触れたくて仕方がないのだ。どんなに表面を取り繕ってみたところで、その本質が変わることは無い。
少しばかり汗ばんだ彼の額、柔らかに指に絡みつく髪の感触に、胸の奥が深く疼く。
そんな高遠に気付きもしないで、はじめは気持ち良さそうに目を細めている。何も知らずに無防備な表情を見せるはじめに、高遠は心のどこかで、後ろめたさを感じていた。
「…せんせ…おれ、どうしたの?」
微かに掠れた声で、はじめが聞いた。その柔らかそうな、けれど熱のせいなのか僅かに乾燥した質感を見せているくちびるが動く様から、高遠は眼が離せない。
「…覚えてないんですか?」
努めて、なんでもない声を返しながら、そんな自分の内心がばれてやしないかと怯える。
「…なんか、身体が熱いなあ、とは思ってたんだけど…頭が、ふらふらしてくるし、とか」
「倒れたんですよ、そのまま。ぼくがここまで運びました」
「そっか、ゴメンね先生。なんか、迷惑掛けちゃった」
何も気付いてはいないのだろう、はじめは高遠に、微笑みかけてくる。
けれど、と高遠は思う。
突然、あんなことをされたというのに、怒ってはいないのだろうか。目の前のはじめは、まるで何事も無かったかのように高遠と話している。
階段で、彼の重みを受け止めて、止まらなくなってしまった自分の激情。けれど、高遠とて教師なのだ、後悔していないわけじゃない。
思い切って、口に出した。
「…ぼくの、せいなんじゃないかと思いました。ぼくが、あんなことをしたから、きみはショックを受けて…」
高遠の言葉を聞いた途端、傍目にもはっきりとわかるほどに、はじめの顔は朱に染まった。
それは決して、熱のせいばかりではないのだろう。そしてそのまま、口元を手で押さえると、はじめは高遠から顔を背けた。
そんなはじめを見ながら、熱でぼんやりとしていて、今まで忘れていたのかもしれない、と高遠は思った。それとも、敢えて夢だったと思い込もうとしていたのか。
どちらにしても、はじめがあのことを歓迎していないのは、確かなことなのだろう。
「いや…ですよね。男からされる、キスなんて…」
思わずといった具合に、零れ落ちた高遠の言葉に、けれどはじめは、意外な反応を寄越した。
「違う!」
弾かれるようにこちらを向いて、大きな瞳を見開いて、自分を見つめる、はじめ。
これは、一体どういうことなのだろう?
彼は、嫌がっているわけではないのだろうか?
けれどはじめ自身、自分の言葉に戸惑いを隠せず、慌てた様子を見せている。
ああ、そう言えば、こんな子でしたよね。
いつもどこか、人が傷つくことを恐れているような。
たとえ、自分が一番、傷ついていたとしても。
高遠はそんなはじめを見つめながら、苦笑を禁じえなかった。
この優しい子供は、自分に邪な感情を抱いている大人にさえ、思いやりを忘れない。
はじめは、懸命に言い繕おうとしているのか、焦りを隠せないまま、口を開いていた。
「いや、その、あの…具合が悪くなったのは、せ、先生のせいじゃないよ…。そりゃ、恥ずかしくて、身体が熱くなったりはしたけど、でも具合が悪くなっちゃったのは、たぶん、親いなくて…ここんとこ…まともにご飯食べて……ないから…だと…思う…」
けれど話しながら、はじめのその表情が、段々と暗くなってゆくのに高遠は気がついた。
それは、いつも見ていたからかもしれない。
自分でも、気がつかないうちに、彼のことを、ずっと見ていた。
まるで、仮面が剥がれ落ちてゆくように、はじめの顔からは笑みが消えてゆく。
体調が悪くなっているためだろうか、身の内にずっと隠していたものが抑えられなくなってしまった。目の前のはじめからは、そんな印象を受ける。
高遠はどうしようもない痛みを、胸の奥に感じていた。
普段、明るく振舞っているから、何の屈託も無いのだとばかり思い込んでいた。
いつも人懐っこく、明るく笑って明るく喋って、つらい顔など見せたことも無かった。
真実、高遠の中には、たくさんの友人に囲まれて笑っているはじめの顔しか、記憶に無い。
けれど、その顔の裏に、一体どれだけの孤独を抱えていたのだろう。初めて見る、感情を見せないはじめの表情は、自分を押し殺すことに対する慣れを感じさせるのだ。
今まで、自分は何を見ていたのだろうと、高遠は悔しい思いを噛み締めた。
彼の、表面の明るさだけをなぞって、みんなに可愛がられて、愛されて生活をしているのだとばかり思っていた自分に、憎悪さえ覚える。
「おれ…さ」
不意に、はじめの言葉が、高遠の思いを遮った。
「なんですか?」
高遠が、はじめを真っ直ぐに見つめると、はじめもまた、真っ直ぐに高遠を見つめ返してくる。暗い、闇を孕んだ眼差しで。
その、底を感じさせない深い闇に、思わず、高遠の背筋が寒くなる。
「おれ…すごく、つらかったんだ。最近、先生、おれのこと、まともに見てくれないから」
「それは…」
「今日だって…あんなことしたのに…教室に入ってからは、ずっと、おれのこと無視するし。…先生は、おれのこと…からかってるの? 男に告白されてたりするから?」
「そんなことは!」
言いかけて、絶句した。
はじめの眼に浮かぶ、涙が、いい加減な言葉など、拒絶している。
暗く、深い闇。
なんびとも拒絶しながら、そのくせ、深く求めている。
この闇ごと、抱きしめてくれるひとを。
高遠は、手を伸ばした。何も、言わずに。
そして、まだ未発達な少年の身体を、抱きしめる。
何の抵抗も無く、高遠の腕の中に納まったはじめは、不思議そうに首を傾げた。
「どうして、こんなこと、するの? せんせい…」
「…きみが、好きだから…」
「うそ」
「うそじゃ、ありません。ずっと、こうしたかった。でも、きみに嫌われるのが怖くて、できなかった。きみを避けていたのは、自分を抑えられなくなりそうだったからですよ」
「うそ」
「うそじゃ、ありません」
「うそ、うそ、うそだ!」
突然、腕の中で暴れだしたはじめを、でも、高遠は離さなかった。強く抱きしめているうちに、はじめの抵抗は弱くなり、やがて、しゃくり上げるような呼吸が、合わさっている薄い胸から伝わり始めた。
「…おれの…とうさんや…かあさんも…おれのこと、愛してるって言いながら…いつも…傍になんか…いてくれないんだ。…ずっと…そうだった。…本当は、おれのことなんか…誰も…愛して…くれないんだ…」
はじめの流す涙を吸って、高遠の白衣が湿り気を帯びる。
身体を微かに震わせながら、嗚咽を堪えて泣くはじめを抱きしめて、高遠は、どうしようもなく、この存在がいとおしいと想った。守りたいと強く思った。それは、今まで自分を突き動かしていたものとは、全く、別の感情で。
「ぼくじゃ、駄目ですか? ぼくが、他の人の分もきみを愛しますから、それじゃ、駄目ですか?」
「せんせ…なに言って…」
「本気ですよ。今まで、ぼくは失うことを怖がってばかりいたけど、きみのためになら、全部捨ててもかまわない」
「せんせ…」
強引に、唇を合わせて。
言葉を紡ぐ途中だった唇の隙間から、無理やり忍び込んで、絡めとって。
震える身体を抱きしめたまま、高遠は、夢中ではじめの唇を味わった。
だから、気が付かなかったのだ。
いつの間にか、終礼を知らせるチャイムが鳴っていて、はじめの友人が、様子を見に来ていたことなど…
06/05/27改定
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少しばかり短めですが、次は場面が変わってしまうので、ここまで。
なかなかお話が進展しませんが、焦れてやってください(笑)。
今回は高遠くん視点なのですが、実は次回もそうです。
変わりばんこでと思ってたのになあ。
06/05/28UP
再UP 14/08/29
-竹流-
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