紅に染まる空 Ⅲ




高遠のくちびるが、おれの胸に、首筋にと落とされて、シーツを掴もうとしていたおれの手に、高遠が指を絡めてきた。
登りつめてゆく途中で。
狂おしい、時間の中で。
こんなことをされたのは初めてで、思わず薄く目を開けて横を向くと、おれの視界に、薄暗い室内とおれの頭の下に敷かれている枕の端と、そしてその向うに、うねる波のように乱れたシーツの上で、しっかりと指を絡ませて繋がれているおれと高遠の手が見えた。
まるで、恋人同士みたいにそんなことをしていることに、でも、熱で煽られているおれは、それをぼんやりと見つめているだけだった。
なぜ、こんなことをするのかとか、この男が何を考えているのかなんて、考える余裕さえ無かったんだ。
追い詰められて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていたから。
そんなおれの耳元に高遠はくちびるを寄せると、何を思ったのか、熱を孕んだ声で、ただ一度だけ、初めておれの名を呼んだ。

「はじめ…」と。

…そう、ただ、それだけだったのに。
なぜだかおれは、酷く、乱れてしまったんだ。



なかなか整わない息と、胸の中で激しく存在を主張する心臓の鼓動を感じながら、ぐったりと手足を投げ出して目を閉じていると、髪に触れてくる感覚がある。
そのまま、おれの髪を梳く感触に目を開けると、すぐ目の前に高遠の顔があって、それはおれを見つめながら、とても穏やかな笑みを浮かべている。
嘲るような冷たさも、挑戦的な激しさも何も無い、涼やかで穏やかな笑み。
そんな高遠の笑みに、おれは一瞬、見とれていたのだろうか。
声も無く、そのまま高遠の顔を見つめていた。
どのくらい、そうしていたのか。不意に、高遠が口を開いた。

「よかったですか?」

少し、顔が引き攣ったかもしれない。
相変わらず、人の感情も何も無視した物言いだなと、おれは思うんだ。
この男は、おれのことをなんだと思っているのだろう? 
おれは、決してこの男の恋人なんかじゃないし、自分の意思でこの男に抱かれたいと思っているわけじゃない。脅されて、無理やりこんな関係にさせられているだけなんだ。
きっと、この男のことだから、それらのことを全部承知で聞いているのだろう。

『ゲーム』を持ちかけたのはきみですよ? さあ、どう答えるんです?

心の中で笑いながら、そんなことを考えているんだろう。
どんなにやさしそうな顔をしても、この人殺しの男の内面が変わるわけも無い。
そんなわかりきったことに、なんでおれは今さら、軽いショックなんか受けてるんだ?
こう答えてやればいいだけなのに。
「まあまあかな?」
そう言って、にっこりと笑いかけてやればいい。
まるで、駆け引きを楽しんでるみたいに。
その方が、この男も喜ぶんだろう。

でも…

「…金田一君…?」
突然、目の前の高遠が、戸惑いを含んだ声を出した。
その表情は、少し困ったようなものに変わっている。

何が哀しいのかな?
割り切ってるはずなのに、おれの眦からは、雫が零れ落ちていた。

泣き顔を見られたくないから、横を向いて腕で顔を隠したんだ。
口を開くと、嗚咽が漏れてしまいそうな気がしたから、何も言わなかった。
高遠も黙ったままで、おれたちの間には、気まずい沈黙が流れていた。
でも、こんなこと、いつものことだったんだ。
やがて高遠は、おれの髪を指に絡ませたまま、おれの頭をそっと撫でると、名残を惜しむみたいにゆっくりと指を離した。
それから、この男らしくない、深いため息をひとつ落として。

「これで、終わりにしましょう」
静かな声が、おれの耳に響いた。

「えっ?」
咄嗟に、涙を拭うことも忘れて、おれはその声がした方へと顔を向けていた。
視線の先では、高遠が、また穏やかな笑みを浮かべておれを見ている。
「いま…なんて…?」
信じられないことを聞いたとばかりに、おれの声は震えていて、たぶん、おれの顔も、それに違わず驚いていたんだろう。目の前の高遠が、失笑するみたいに口元を歪めた。
「言ったとおりですよ。これできみも、晴れて自由の身だということです」
「な…んで…急に…」
「心配しなくても、持っていた画像は全部消去しますから。今まで、お付き合い願ったお礼代わりにね。ああ、今すぐ警察に通報するならしてもかまいませんよ? 簡単に捕まりはしませんけど」
おれの質問には答えもせずに、高遠はそれだけを告げると、おれから顔を背けるようにして身体を起こした。それは、拒絶の意味、なのだろうか。
目の前の男は、乱れた漆黒の髪を洗練された動きで掻き揚げている。

高遠が終わりを告げるとき。
それは、ただひとつの理由しかないことを、おれは知っているし、おれもそれを待っていたはず。
今まで、ずっと。
なのに、どうして、こんな気持ちになってしまうんだろう?

おれに飽きたから捨てるのか? と、聞きたいのに、怖くて、聞けない。
おれも、震える身体をゆっくりと起こしながら、いまだ信じられない面持ちで、ベッドから離れようとしている高遠の背中を見つめていた。
白くて、滑らかな肌。
細いくせに、意外と大きな肩幅、広い背中。
紅く筋が付いているのは、おれが無意識のうちに引っ掻いた痕だろうか。

やっと、自由になれる。
もう、男なんかに抱かれないですむ。
全部忘れて、無かったことにして、生きてゆけばいい。
また普通にもどって、女の子と恋愛して、今までと同じように、生活してゆけば。

もう、この男の温もりに、触れないでいいんだ。
もう二度と、触れることはない…

そう考えた途端、また前触れもなしに、涙が溢れてきた。
あれ? なんで?
訳もわからず、溢れてくる涙を慌てて拭うのに、後から後からそれは零れて、自分でもどうしていいのかわからなくて、軽いパニックになりかけた。
俯いて、小さな子供みたいにごしごしと両手で目を擦って。
必死で堪えようとしていたのに、駄目だった。

「…うっ…ふっ…う…うう…」

どうしても堪えきれずに、おれのくちびるからは小さな嗚咽が漏れ出した。
その途端、バスルームに向かおうとベッドから立ち上がっていた高遠が、なぜかまた傍に戻ってくる気配がした。
クッションのいいホテルのベッドが、音も立てずに高遠の存在をおれに伝える。
けれど、おれは、涙を拭いながら眼を開けられない。自分でも、なぜ泣いてるのかさえわからなくて、どうすればいいのかわからない。
「金田一君?」
戸惑いを隠しきれない声が、すぐ傍で聞こえて、そして、おれを抱き込もうとするのか、高遠の腕が身体に回されてゆくのがわかった。

どうして、また、抱きしめようとなんてするんだろう?
飽きたくせに。
捨てるくせに。

おれは、それを拒絶しようと抗って背中を向けたのに、高遠はそのまま背後からおれを抱きしめてきた。
その温もりが、酷く切ない気がして。
余計、涙が止まらない。
胸が痛くて、苦しくて、くるしくて、止められない。

おれは一体、どうしたっていうんだろう?
なんで、こんなにかなしいんだろう?

『…もしかしておまえ、誰か好きな人でもできたんじゃないのか?』
おれの頭の中に、草太の言っていたことが思い出される。
そうだ、確かあいつは、こんなことも言っていた。
『…なんだか辛い恋をしているみたいな感じがするんだよ。おまえを見てるとさ…』

つらい恋をしている?
おれが…



どうして、高遠に見つめられるとドキドキしてしまうのか。
ふたりで映画を観て、一緒に飯食って、普通に話をするのが、なぜあんなに楽しいと思ってしまったのか。
イヤだイヤだと思いながら、そのくせ、いつの間にか、抱かれること自体に嫌悪を感じなくなってしまっていたことも。
よく考えれば、全部、一つの答えを指し示していたのに。

認めれば、簡単なことだった。
ただ、認められなかった。
初めから、破綻しているのが、わかっていたから。
そう。
おれは、高遠のことが、好きなんだ。

やっと理解したよ。
この『ゲーム』は、おれの『負け』なんだと…



06/09/03

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「紅に染まる空3」アップです~。
ようやく、ここまで辿り着いたという感じでしょうか。
次で完結です。
どうか、最後まで楽しんでいただける作品になっていますように(祈)。

06/09/03UP
15/01/14再UP
-竹流-


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